2012年07月19日

東北大震災復興支援視察セミナー参加報告(その2)

陸前高田市役所東北の視察から戻ってきて早や1か月半が経過し、梅雨も明けてしまいました。ようやく陸前高田の視察報告が出来ます。
画像は『奇跡の一本松』でも有名になり、市長もたびたびテレビ出演をしている陸前高田市の仮設庁舎。高台にプレハブの市役所がありました。

林業の町、住田町とは異なり、こちらの仮設住宅・仮設店舗は、平時にハウスメーカーと交わした災害時の仮設住宅の設営契約に基づいて、鉄骨プレハブの建物が数か所に分かれて設営されていました。要するに、一定程度のプレハブ住宅の在庫をストックさせておく代わりに、災害時は地元の建設会社を使わず、大手プレハブメーカーに発注することが決められている契約です。

ちなみに、市役所の屋外トイレはバイオで分解するエコロジーな仮設トイレが駐車場に並んでいて、においに配慮していることも伺えました。

陸前高田の仮設店舗まずはオープンしたばかりの仮設店舗におじゃまし、復旧の様子を伺いました。県外から来たボランティアも手伝い、敷地内にある小さな公園の整備も行っていましたが、地元商店の有志が集まり、テナント構成や提供している商品やサービスも寄せ集めになっているので、集客力や販売力に関しては、もう少し時間の経過も必要だと感じました。あれほどの大災害で何もなくなったところからの再スタートなので、オープンにこぎ着けただけで、地元に元気を与えているような気もします。

大船渡の地元建設会社の説明パワーポイント仮設店舗の2階にある会議室に移動し、隣町の大船渡の建設会社の経営者から、パワーポイントを使って震災前の状況と震災直後、そして復旧・復興の様子を解説していただきました。

この建設会社が建てたアパートの被災の状況や修復の様子も時系列で見せていただきましたが、多くの木造家屋で、地震や津波で損傷を受けたことは間違いないものの、大船渡の港湾の貯木場にあった丸太による激突が、外壁やサッシなどを突き破り、大きなダメージを残したということも聞きました。

視察参加者の中で、岐阜から参加していた元住宅会社の経営者も「伊勢湾台風でも、貯木場の木材が凶器になった。その教訓が生かされていれば・・・」と発言していたのが印象的でした。

陸前高田仮設団地看板

津波に洗われた平野部を見下ろせる高台に建設されたプレハブの仮設住宅を訪ねました。
鉄骨プレハブの仮設住宅

住田町で見た木造の仮設住宅と比べるとずいぶん無機質で、住民同士も交流の機会を遮断されているような感じがしました。

仮設団地裏山の杉林と木材加工場しかも写真でも分かる通り、すぐ裏の山は杉林で材木の加工場もあるような立地です。木材は乾燥させなければ使えないとはいえ、この立地に地元の人たちが何も参加できない鉄骨プレハブの仮設住宅を建てなければならない「災害時の契約」は、何か釈然としないものが残りました。

1年後に断熱補強をしたプレハブ仮設左の写真で見る通り、工事現場に設置している仮設プレハブよりもしっかりとしたコンテナーのような印象があります。しかし仮設住宅に入居された人たちは、この東北山形県でひと冬を過ごし、あまりの寒さにマスコミ取材も相次ぎ、テレビ放映までされたようです。そのため今年度になって復興予算がついて、プレハブの外側に吹付け断熱(プロパンガスの裏に見えるカーキ色のもの)と二重サッシにグレードアップしたそうです。

住んでいる方に話を聞いてみると「去年の冬は寒かったけど結露はほとんどありませんでしたよ・・・」との声。
住田町の木造プレハブでもサッシの結露やお風呂の天井の結露に悩まされたという話を聞いたのでちょっと驚きましたが、何のことはない、あまりに断熱性能が低く、エアコンの暖房も我慢していたため、外気温との温度差が少なく、結露が発生しなかっただけだと分かりました。

仮設団地から見たガレキ処理の様子恐らく地元で住宅建設をしている工務店が建てたら、例え仮設住宅とはいえ、こんな建物に被災者を住まわせるようなことはしなかったでしょう。

右の写真は、この仮設住宅団地の駐車場から見たガレキ処理の現場です。数多くの重機が動いており、高くガレキが積み上げられていました。

高台の仮設住宅から、市街地のあった場所に移動。大型商業施設をはじめとした重量鉄骨やRC造など、頑丈な建物が残っていました。東広島に本社のある100円ショップ『ダイソー』の看板も見える3階建てビルが、見るも無残な姿で残っており、3階まで壊滅状態になった被災建物を見ると津波の凄さを実感します。

バスでビルに近づくと、とても自然の猛威の前に力では対抗出来ない。
それが可能だとこれまで考えてきたのは、人間の過信でしかないと感じました。
津波で被災した鉄骨のショッピングセンター尋常ではない津波の破壊力

日本で昔から建てられた建物は、自然災害にもすぐに復興できるように、解体や組み直し、一部の部材を取り換えることが容易な「木造建築物」が建てられました。火災で焼失しても、人間さえ助かれば元の場所に住処をつくり再建することはそれほど大変ではありませんでした。

しかし、耐震性能を高め地震にも強い頑丈な建物を造ってしまったことが、簡単に除去もできず、莫大な費用が掛かってしまう構造体が、復興の足枷にさえなり兼ねないということも被災地に足を運んで分かりました。

地元の人たちに話を聞くと「阪神淡路大震災は、近くに被災を免れた大都市(大阪や京都)があり、被災した都市自体にも経済力のある企業があった。東北は仙台くらいしか大きな都市がなく、しかも被災が広範囲にわたって、福島原発事故の影響もあり、阪神のような復興は期待できない」と言われていました。

陸前高田 奇跡の一本松昭和20年の8月6日、広島は一発の原子力爆弾で都市は壊滅状態になりました。頑丈な建物だった産業奨励館は、原爆ドームとして後世に残され、世界遺産にも登録されました。

戦後、焼け野原になった広島も奇跡の復興を遂げ、中国地方では最大の活気ある街になりました。決して広い平野があったわけではなく、山を切り開いてベッドタウンも高台に広がっています。現地で見た奇跡の一本松が復興のシンボルとして、以前とは違う形の住みやすい街に復興してほしいと願うばかりです。

広島の開発業者のノウハウや今欧米で主流になっている、コンパクトシティ、サスティナブル・コミュニティの開発手法を参考に、100年後も残したくなる街づくりに取り組んでもらいたいですね。同行したアメリカ人メンバーも、心に期するものがあったと思います。

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